グレアム・ヤングという人物について

1. 概要

Handbook for the your poisonorより引用しました。

 改悛しない殺人者は魅力的だ。その善し悪しはともかく、そこに一種の魅惑があることは誰にも否定できまい。グレアム・ヤングも、その毒々しい魅力をふりまく一人である。


 ヤングは一九四七年、ロンドン北の住宅地で生まれた。利発だが孤独で、自分一人でいることが多かった。趣味はナチスと黒魔術、それに毒物学だ。ヤングは毒物マニアだった。ヴィクトリア時代の悔い改めない毒殺者、ウィリアム・パーマーを崇拝し、さまざまな毒物の作用を研究していた。やがて、その研究は実践へと向かう。ヤングは家族や親しい友人に毒を盛りはじめた。毒物の量を加減して、苦しめたり回復したりする様子を「研究」したのだ。やがて、実験は取り返しのつかない方向に進みはじめる。一九六二年、ヤングが十四歳のとき、義母が激しく苦しんだあげくに死亡した。検死はされなかった。相前後して父も倒れるにいたり、周囲の人々も怪しみはじめた。ヤングは逮捕されると、喜々として毒物の知識を披露してみせた。彼はブロードモア精神病院に送られた。


 ここで終わっていれば、ヤングはただの早熟な殺人鬼だったろう。だが、世の中そう単純ではない。一九七一年、ヤングは「完治した」として釈放された。ヤングは光学機械の製造会社につとめたたが、会社では原因不明の腹痛が流行した。死者も二人出た。事情説明におとずれた保健所員にヤングは毒物中毒について質問を浴びせた。自然注目を引きつけて、ヤングは殺人罪で再度逮捕された。


 ヤング事件からはいろんな教訓が引き出せる。保守派の論客なら、犯罪者に対して甘い「リベラルな」精神科医があらたな犠牲者を生み出したのだ、と言うかもしれない。人権派は精神病院や刑務所の経費削減が、早期釈放政策の原因だ、と言い返す。ヤングにうかうかと騙された精神科医の愚かさを訴えることもできるし、手遅れになるまでヤングの異常を認められなかった家族や同僚から、人間の弱さを読みとることもできる。


 だが、どれよりも興味深いのは、ヤングの動機そのものだろう。『グレアム・ヤング毒殺日記』から聞こえてくるヤングの肉声だ。


 ヤングは科学実験のつもりで周囲の人々に毒を盛り、それを記録につけた。裁判にかけられても傲岸不遜な態度を崩さず、相手を小馬鹿にした態度を崩さなかった。彼にとっては他人の生命など無に等しく、良心の呵責などかけらもなかった。あまりに鉄面皮だったので、周りの人間は疑いを抱けなかったのである。そんな人間がいるはずはない、と。


 なぜ、ヤングはそんな人間になってしまったのか。それはわからない。作者にとってもそれは謎のままである。ただ、そう生まれついてしまった、と言うよりないのだろう。だが、まさにその謎がヤングの魅惑を生み出している。法廷でオスカー・ワイルドを吟じ、「人は誰でも愛する者を殺す」とうそぶくヤングは、まちがいなく魅力的である。

2. グレアム・ヤング毒殺日記より人生のあらすじ

WHAT'S NEW PUSSYCAT!?より引用しました。

1947年9月7日英・ロンドン北部生まれ。姉が一人いる。母親のマーガレットが妊娠中に胸膜炎を悪化させたため、虚弱児として誕生。マーガレットは結核からくる脊椎の潰瘍によりグレアムの生後三ヶ月で死去。父親が再婚する2歳半まで、親戚の叔母さんがグレアムの母代わりとなった。父親とはこの母親死去が絡んだことが原因だったのか、あまり仲はよくなかったらしい。


9歳頃からナチズム(欧米のシリアルキラーに関する記述には必ずヒットラー関係がでますな。あとニーチェも)、化学に傾倒し始める。12歳の時点で既に素人とは思えないほどの専門的知識を保持していた。アンチモンの小瓶に「かわいい友達“リトル・フレンズ”」と名付け、肌身離さず持ち歩き、級友たちには「将来有名な毒殺魔になるんだ」と公言。


13歳のとき、クラスメート、義母、姉、父親に毒を盛り、うち、義母が死亡。アンチモンタリウムの中毒によるモノだった。裁判所による判決は、精神的失調をきたしているのでブロードムア病院(イギリスにある有名な触法精神障害者収容所施設)への収容が妥当というものだった。再犯性が高いという医師の助言に基づき、内務大臣による特別の承認がなければ15年間釈放されないという制約付きで。グレアムは1962年7月に収容された。


彼は施設において品行方正な模範囚として過ごす。そして症状が改善されたという担当医の助言を受け、内務大臣は3つの条件


 ・ 決められた住所に住む
 ・ 保護観察官の監督を受けること
 ・ 外来患者として精神科医の診察を定期的にうけること

付きで釈放を許可。(施設過密化により改善された思われる患者はなるべく退院させるという方針があったようだ)1971年2月4日出所。


職業訓練所に通った後、ジョン・ハドランド社へ倉庫部門担当として就職。(ちなみに面接時、職業訓練所に通所する前はなにをしていたのか問われたグレアムは「母が交通事故で急死し、そのショックで精神衰弱に罹患し病院へ入院していた」と説明。彼はかなり芝居が巧かったらしく、前歴照会されることもなく面接を通過した)その後同社では謎の腹痛による患者が多発する。4人が重篤な症状のため入院し、二人は死亡。同社の招きにより、社員への聞き取り調査をしていた医師は異常に卓越した医学知識を保持している担当者に疑問を抱く。それがグレアム・ヤングだった。


お気に入りのアンチモンタリウムの中毒によるものであり、裁判の結果、彼は二件の殺人罪および二件の殺人未遂罪により終身刑、ほか二人に対する毒殺投与についてはそれぞれ5年の禁固が言い渡された。1990年8月、43歳の誕生日を2週間後に控えたヤングは、刑務所内において心臓発作を起こして死亡した、と伝えられる。(以上「毒殺日記」より抜粋要約)

3. Wikipedia から見るグレアム・ヤング

Graham Frederick Young - Wikipedia, the free encyclopediaより引用しました。また、このサイトにコメントを寄せていただいた 暇人さん によって、文章が翻訳されましたので、そのまま掲載いたします。暇人さん のご協力に感謝いたします。

グレアム・フレドリック・ヤング(1947年9月7日生−1990年8月1日没)は、イギリスの連続殺人犯で、3人の人間(継母、および2人の職場の同僚であるボブ・イーグルとフレッド・ビッグス)を毒殺した。また、多くの人に少量の毒を盛った。彼は、若い頃から毒物とどれが人体に及ぼす影響に(そしてもちろんナチズムにも)魅了された。1961年(彼が14歳の時)に、家族に対して、毒を与える実験を彼は始めた。毒は、致死量にならない程度で、しかし、体調を酷く悪くするには十分な量になるようコントロールされていた。アンチモニーとジキタリスを多くの回数に分けて少量ずつ購入することによって、大量の毒を手に入れることに成功した。購入の際には歳を偽り、学校で化学の実験に使うと言っていた。


1962年にヤングの継母・モリーが、ついに致死量の毒によって死亡した。彼は、計画的に父、妹、そして学校の友人にも毒を盛った。ヤングの叔母であるウィニーは、彼が科学と毒物に見せられていることに気付いて、彼を疑うようになった。彼は、自分が毒を盛った食物を忘れてしまったため、家族と同様の悪心と病状に襲われたため、疑いを免れるところであった。彼は、精神科医に送られ、その精神科医が自首することを勧めた。ヤングは1962年5月23日(14歳)で逮捕された。彼は家族と友人を殺害しようとしていたことを自白した。母親の遺体はすでに火葬されてしまっていたので、分析不可能だった。


ヤングは、15年間のブロードムーア病院(精神障害による犯罪者のための施設)での入院を宣告される。彼は9年後に、「完治した」ものとみなされて、釈放された。しかしながら、彼はこの期間を、化学物質に関する文献の調査と、毒物の人体に与える影響の知識の向上、および、患者と病院の職員をモルモットにした実験の継続に費やしていた。


釈放後、彼はBovingdon, Hertfordshireにある写真関連用品を扱う店に職を見つけた。彼の雇い主は彼がブロードムーア病院からの照会を受けてはいたものの、彼が毒物の使用で有罪の宣告を受けていたことは知らされなかった。彼が働き始めてからすぐに、上司のボブ・イーグルが重病にかかり、死亡するに至る。かれは、アンチモニーやタリウムといった毒物を混入した紅茶を、好意を装い同僚に淹れてやっていた。彼の職場では、病気になる人が続出し、これは、何か奇妙な病気であると勘違いされたため、この病気は「Bovingdon病」と呼ばれていた。もちろん、人々が襲われた吐き気も病気も、それは時には入院を要するものであったが、ヤングと彼の淹れた紅茶によってもたらされたものだと思われる。


彼はその後の数ヶ月間で、70人ほどの人に毒を盛ったが、死者は出なかった。ボブ・イーグルの後任は、職に就いてすぐに病気にかかったが、辞職することに決めた。この決定は、彼の生命を救ったものと思われる。ボブ・イーグルの死から数ヶ月後、彼の同僚、フレッド・ビッグスが、病気を悪化させ、ロンドン国立病院に神経性疾患で入院を許可された。残念なことに、これは遅きに失し、数週間苦しみ抜いた末に、彼はヤングの3人目の犠牲者となった。


この時点で、職場に蔓延する病気と死に適切な調査が必要なことは明らかであった。ヤングは、会社に勤める医者に、これらの病状はタリウムによるものだとは考えられないかと訊ねていた。また、彼は同僚に、自分の趣味は有毒物質の研究であると打ち明けていた。この同僚は、すぐに警察を訪ね、警察はヤングの前歴を調べ、彼の前科に驚くこととなった。


ヤングは、1971年11月21日に逮捕された。警察は、彼のポケットからタリウムを、また、アパートからアンチモニーとタリウムとアコニチンを発見した。また、警察は、非常に詳細な日記を発見した。この日記には、彼が持った全ての毒とその効果、そして、犠牲者を死に至らしめるか否かが記されていた。


彼の審判は1972年6月19日にSt Albans Crown Courtで始まり、10日で結審した。彼は、無罪を主張し、この日記は単なる創作で、将来書こうと思っている小説の基にしようとしているものだと主張した。当然ながら、証拠と照らし合わせて、彼は有罪だと判断され、終身刑を宣告された(今回は精神疾患者のための施設ではなかった)。彼は、「ティーカップの毒殺者」と呼ばれるようになった(彼は「世界の毒殺者」と記憶されることを望んでいたようなのだが)。


ヤングは、パークハースト刑務所で1990年に42歳の生涯を閉じる。公式の死因は心臓疾患だが、他の収監者によって死に導かれたと推測されている。


映画、「The Young Poisoner’s Handbook」は、大筋でヤングの生涯に基づいている。

4. The Climb Library から見るグレアム・ヤング

Graham Young, the St. Albans Poisoner - The Crime libraryより引用しました。また、このサイトにコメントを寄せていただいた 瑠璃子さん と 妖精さん によって、文章の紹介・翻訳が成り立ちました。お二方のご協力に感謝いたします。

2月以来、37歳のモリー・ヤングは嘔吐と下痢と耐えがたい胃の痛みに苦しんでいました。(彼女は初めに、胆汁性の攻撃としてそれを棄却しました)。 また、間もなく、同様の胃けいれんが一度に続けて何日間も彼を弱らせていて、44歳の彼女の夫フレッドは苦しんでいました。 そして、22歳のウィニフレッドがその夏に乱暴に2、3の時に病気であったフレッドの長女。 その後まもなく、彼女の兄弟グラハム・ヤングは家で乱暴に病気でした。


まるで神秘バグがそれらの家庭を超えて広まったかのように見えさえしました--また、グラハムの学校友達のカップルは学校に同様の苦痛な兆候をもって一度か二度ほとんどいませんでした。


1961年11月に、陰謀は厚くされました。 ウィニフレッド・ヤングが、一杯の紅茶が、ある朝の間彼女の兄弟によって出されましたが、味がとても酸っぱいのがわかったので、それを捨てる前に、彼女は1つの口だけを取りました。 彼女は、1時間後に扱う列車の上で幻覚を起こさせてい始めて、ステーションから助けられなければならなくて、結局、病院(医師は彼女がどうにかまれな毒ベラドンナに感染していたという結論に達した)に連れて行かれましたが。 彼女は父のフレッドを彼女に言いました。(彼は理論を展開しました)。 彼の14歳の息子グラハムは、数年間化学に夢中であり、不成功の実験が彼の部屋で家具に火をつけた後に家で化学物質を使用するのが禁止されさえしました。 少年はうっかり彼の家族の食物を汚染することができましたか?


グラハムはウィニフレッドを非難しました、そして、彼は息子に立ち向かいましたが、彼がだれを要求したかがシャンプーを混ぜるのに家族の茶碗を使用し続けていました。


納得していなくて、フレッドは、グラハムの部屋を捜しましたが、何にも訴えを見つけませんでした。 それにもかかわらず、彼は、これから「それらの血だらけの化学物質をいじくり回す」とき、より注意しているように息子に警告しました。


家族はしばらく、グラハムに関して心配していました。 彼はまさしく…でした。全く他の彼の年令の少年と異なって異なります。 9か10歳以来、彼は化学と毒に取りつかれていました。(その時、彼は、コンテンツを分析して、蒸気をかぐために彼の継母モリーの香水とマニキュア液移転者を盗み始めました)。 家族のメンバーが頭痛タブレットかいくらかの鎮咳薬を飲んだなら、彼は、正確な学名を彼らに言う際にすべての成分に大きい喜びを取って、非常に大きい投与量を取るならどんな苦痛がそれらに起こるかを詳細に彼らに言うのに特に熱心に思えました。


それでも、少年には趣味がなければならないので、グラハムが彼の「11プラス」試験(その頃、子供がアカデミックにより気にされた子供のための中学校、または、より実用的な好みのもののための「二次現代」まで行くかどうか決定した)をかろうじて切り抜けたとき、彼の父は報酬として化学実験用品一式を彼に買いました。 彼は、このステージの彼の息子の独学で、それが一組のポットと初心者のコックの本をCordon Bleuシェフに与えるのに同等であったのを知ることになっていませんでした。


図書館の本の助けで、グラハムは既に化学大学院の専門的技術を獲得しました。 しかし、彼の日曜大工の化学実験はあなたが最も好奇心の強い男生徒からさえ予想するかもしれないより極端な接触であるように思えました。 彼はマニキュア液移転者を高くなるように1瓶のエーテルから吸入するのに卒業しました。 彼は彼と共に1瓶の酸を持ち歩きました(彼の学校ブレザーに一度焼け焦がしをこしらえました)。 他の時に、彼は、小さい爆弾を作るために花火から火薬を抽出するでしょう。 彼は、彼の隣人の壁と近くの小屋を爆発させましたが、何とか事件のための非難から逃げました。


フレッド・ヤングは特に彼の息子の近くに一度もいませんでしたが、彼さえ彼自身の生きた人間が故意に家族を毒殺することができたという考えをいだくことができませんでした。


彼の妻の兆候が数カ月後にどのように突然悪化するかを知っていたなら、彼には、考え直しがあったでしょうに。

補足:この翻訳文は excite と一致したので、後日翻訳し直して再掲したします。


5. 年代チャート

引用だけでは理解しにくかったので、ある程度ですが、まとめてみました。

1947 9 7 英・ロンドン北部にて、グレアム・ヤングが生まれる
母親マーガレットの妊娠中の胸膜炎によって虚弱児となる
1947 12 x 母親マーガレットが結核からくる脊髄の潰瘍により死去
これによりグレアムは親戚叔母の元に引き取られる
1950 3 x 父親が再婚する (父親とは余り仲は良くなかった)
1956 9 x ナチズム、化学に対して興味を抱く
1959 9 x 素人とは思えない程の専門的知識をこの時点で持っている
アンチモンの小瓶に「かわいい友達”リトルフレンズ”」と名付け、普段から持ち歩く
級友たちに「将来有名な毒殺魔になるんだ」と公言する
1960 9 x クラスメート、義母、姉、父親に毒を盛り、これにより義母が死亡
裁判所に精神的失調によりブロードムア病院への収容の判決を受ける
1961 x x 義母が毒によって死去
1962 7 x ブロードムア病院に収容される
1971 2 4 品行方正が模範囚として過ごし、15 年間のはずが 8 年で出所する
1971 α x ジョン・ハドランド社に倉庫部門担当として就職
β x 社内にて「Bovingdon 病」なる謎の腹痛を訴える患者が出る (もちろんアンチモンタリウム)
1971 11 21 知識が豊富な事から疑いが掛かり逮捕
1972 6 19 St Albans Crown Court で裁判が始まる
1972 6 29 裁判によって終身刑を言い渡される
1990 8 24 刑務所内で心臓発作を起こして死亡
(他の収監者によって殺された可能性も指摘されている)

6. イメージデータ

WHAT'S NEW PUSSYCAT!?より引用しました。



再拘留のときの正面写真(左) 駅の自動撮影機にて(右)